
自己紹介と”Chagami”の過去
はじめまして。Chagami(チャガミとお読みください)と申します。
1984年4月に東京で生を受け、そこまで紆余曲折を経ずに業務代行という、世間一般では地味めな仕事を生業としています。
けど、これが我ながら天職と。業務がというよりも、周囲との関わり方がやっててとても楽しい。人付き合い自体がそこまで得意ではないと自負している自分がなんでここに楽しみを見出だせたのか。
勝手に自己分析を兼ねて、少しでもChagamiの事がわかってもらえるように、拙いながらも自己紹介をさせていただきます。
チープな小説だと思って、お時間許せば他人の人生を少し覗き見てやってください。
生年月日 | 1984年4月2日(えなり世代) |
生まれ | 東京都武蔵野市 |
好きなもの | ・カレー/ハンバーグ/オムライス/子供が好きなもの全般 ・音楽/ライブ/The birthday/西城秀樹/BRAHMAN ・温泉/旅行/犬 ・ゲーム/FF/地球防衛軍 ・「ありがとう」「助かったよ」 |
嫌いなもの | ・ピーマン/子供が嫌いなもの全般 ・真夏の太陽 ・交流会/パーティーなどの大規模集会 |
1.幼少期の記憶
母ちゃん、じいちゃん、おばちゃんに囲まれて、武蔵野市の都営住宅、いわゆる団地で人生がスタート。実の父親の顔は未だに知らない。2軒となりは幼馴染のアベちゃんち。
とにかくじいちゃんっ子だった。じいちゃんにもすこぶる愛された。どこにいくにもついて行った。昔の写真はじいちゃんと写っている写真が一番多いんじゃないかな。
人生スタートの数年はもちろん”記憶”なんてなくて、”記録”でしか語れないのですが、それでも一番古い”記憶”はじいちゃん。
冬の寒い時期、母ちゃんに怒られて泣いているといつもじいちゃんが「おいで」と優しくしてくれた。ストーブのたかれまくった灼熱の部屋でじいちゃんにくっついていたのをよく覚えている。
やがて保育園に入るのだけど、その時期の記憶がまるでない。すべり台から落っこちて、舌を噛み切りかけて、そこそこ縫ったと言われているけど、まるで覚えていない。
記憶と言うには甚だ申し訳ないくらいの断片的な記憶で言えば、保育園の先生の名前が松村先生だったということ。松村先生、今も元気にやっているかな。
2.子猿のごとく。小学校低学年
晴れて小学校に入学。少子化の影響か、残念ながら今はもう母校は動いていません。不思議なことに、今も校歌はそこそこ覚えてます。
“たーまがーわー水路に名の高き〜”
なんて歌ってました。
さて、小学生のChagamiはお調子者。というか、調子に乗りやすい。加えて落ち着きがなく、小心者のチビ助。まさに小猿。
友達は少なめ。交友関係はごく決まった仲間だけ。その仲間は少年野球チームの同学年。泣き虫ユタカと、体操のタナ。
ユタカは私と同じく小柄で小心者、加えて泣き虫な小猿2である。一方タナは大柄ではないものの、体操で鍛え上げた体が魅力の強気な少年。
ここに加えて1つ下の学年のあっちゅん。あっちゅんは家庭環境の影響もあり、小学生にしてはかなりの無双っぷりだったのを覚えてます。
そんな仲間たちそれぞれに、Chagamiは憧れを持っていた。
ユタカの家は同じ団地内の棟ちがい。本当に目と鼻の先に住んでいて、近所の公園でよく遊んでた。放課後や休みの日には、建物の下から遊びの誘いの声が響いたものだ。ユタカにはだいぶ年上の兄貴がいる。たまーに、たまのたまに、一緒にサッカーしてくれる。すごく上手くて。かっこよくて。そんな兄貴と帰っていくユタカを見て、羨ましさを覚えた時期もしばらくあった。
体操のタナ。今は東小金井でピザ屋を営んでるおしゃれさん。運動神経抜群で野球のセンスも良い。すぐにキャッチャーのレギュラーを確保した。鉄棒なんか握らせたらそりゃもう、グリングリン回転するわけで。そんなスペックがストレートにかっこよかった。同学年でそんな事できる奴がいるわけもなく、特別感を感じたわけで。
そして、あっちゅん。万引暴言あたりまえ、そのくせ数少ない友達には情に厚いヤバイやつ。小心者の自分と違って後先なんて考えない。そんな強さに憧れたのかもしれない。
実は結構、この頃の友達との記憶は残っていて、今でも会えば語り草な思い出がたくさん。ブログなんかにゃオブラート100枚くらい包まないと書けないこととか。
多分、楽しかったんだと思う。純粋に。そんな思い出話はここでは語らず、今後更新していこうと思ってます。
4.最悪の人生フェーズ・中学
小学校を卒業して、そのまま公立の中学入学。家から学校までは徒歩3分。目と鼻の先とはまさにこのこと。めちゃくちゃ近い。
“だが、あんまり学校に行かない”
ただの堕落と言ってしまえばそれまでだが、実はこの頃から有る種のコンプレックスを感じていた。中学にもなると大抵どこでも派閥みたいなものが形成される。これまでの生い立ちでもわかるように、広い付き合いが苦手なChagamiは
まったく身のない中学卒業間際。ついに保有スキルを手放す時が来た。きっかけは学校の階段で野球部の同期にすれ違いざまに言われた一言。
「おまえ、評判悪いよ?」
でしょうね。とは思えませんでした。ガキンチョのChagamiには心底響いた。
「なんでそんな事言われなきゃいけないのか」
「いつお前らに迷惑かけたよ」
そんな思いで溢れかえり、しばらく落ち込んだ。もちろん、小心者のChagamiはそんなこと言い返せないわけだが。
で。です。初めて自分自身について考えるわけです。自らの行動や言動、人に対する接し方、全てにおいて当然ダメダメなわけです。そんな自分にもいくらか友達がいるわけで、それを失うわけにはいかないなと、そういう結論にたどり着いて雀の涙ほどの改心をした覚えがあります。
同時に、大事なもんは大事にしなきゃいけないという、超当たり前のことにようやく気付き、これが今後の人格路線変更に一役かった出来事となったのです。この思いは今でも一貫していて、仕事に活きてると勝手に思ってます。
ありがとう、野球部の君。
そして高校進学。正直、中学が嫌いだったので環境が変わることはウェルカムだった。改心したニューChagamiだし、楽しい高校ライフが当たり前に送れるものだと思ってた。が。事件です。
面白いことに我が家では高校進学の条件がありました。当然、中学生活があの体たらくでは内申評価も低く、挙句の果てには内申が相対評価だった当時、進路相談で担任から
「どうせ今の内申じゃ公立は厳しいから、Kにお前の内申点わけたよ」
なんて言われる始末。そういうシステムだったのか、内申。黙っときゃだれも気づかないのに何で言ったんだ、マリオみてーな面しやがってからに。と、ふてくされた記憶もある。
というわけで公立高校の道は閉ざされ、私立進学の選択肢がこちらをニヤニヤしながら見ておられる。
話を戻すと、そう、事件。私立進学において母ちゃんから出された条件。それが
「私の指定する学校以外に進学するなら学費は自分で払うべし」
んなアホな。しかも提示してきたのはそこそこハイレベル。しかも男子校まで候補入り。嫌です、嫌ですそんなもの。月並みですが、友達と同じ高校にいきたかった。だけども、びた一文稼いだ事のないChagamiがそんな事できるんだろうか。
まあ、その、結果出来たわけです。人間やればできるもんです。いろんな事を犠牲にしながら。傍らでいろんな事を学びながら。
5.存外濃厚なフリーター
ここでいうフリーターとは、Chagamiの高校生活も含みます。多分、学校いってる時間よりバイトしてる時間のほうが長かったから。でも、この期間は本当に濃かった。記憶に新しいからとかではなく、学校では教えてくれない事を、色々学んだ。
高校時代は本当の仲間の大切さ、暖かさに気づいたのもこの頃でした。そのきっかけとなった”門限きびし!3バカ焼肉屋突撃事件”は色濃く記憶にあるので後ほど紹介します。他に”チャリの後輪どこいった?”などもありますね。
高校出てから1年間のフリーター期間(世の中は浪人とか言うけれど)は以後の人生において大きな糧になり、今尚当時の仲間とは少なからず付き合いがある。
様々な人間関係が渦巻いている中、派閥やコミュニティでの立ち回りや、その中での身の程の捉え方、そして初めて他人に評価されることを経験したのがこの期間。
“レインボーブリッジ封鎖事件”とか、”僕の愛車はセドリック事件”、”パパラッチからの鼻血事件”や”わかめ水風船”など様々な事件も発生しました。
さて高校時代ですが、東京は三鷹の私立高校に進学。評判は、あまり良くない。パンチパーマのOBがおっかない車で乗り付けてきたり、校庭を謎の原付きが走り回り、それを自らの走力のみで「このやろー!とまれー!このやろー!」と追いかけ回す体育教師が見れる、とても魅力的な学校でした。
先程述べたように、高校の学費+携帯代+小遣いを捻出するためにバイト三昧だったので、学校の出席日数はもうギリギリで、担任が家まで押しかけてきてアラートを出される始末。いやはや、今思うと素晴らしい先生ですね。
挙句の果てにはたまに学校に顔だして、出席確認で返事をすると「あれ?いる」と担任に。デフォルトでChagamiはいない設定だったようです。
特に記憶に残っているのはこの時期に取得した人格スキル”長所を見つめる”のエピソード。ここで大きな気付きがありました。長くなるので別記事にしました。もしお暇でしたら読んでみてください。読まなくても全く問題有りません。
そんなこんなで恐ろしいほどいろんな感情が巡った一夜。1つ、成長したわけです。この後は学校もそこそこ面白くなり、以前よりは出席するようになりました。バイトに音楽にバイトにバイト。そこそこ楽しみながら卒業となりました。
さて、少しだけ人間らしくなってきた高校卒業より少し前。当然、進路というタスクが降ってきます。やりたいことなどまったくないChagamiは進路なんて考えたことも無かった。このまま焼肉屋に就職でも悪くないかなと思ってた。
それならそれで大学くらいは出ときなさいと親は言うけれど。それも悪くないとは思うけれど。
やっぱり学費は自腹なのねん。
という訳で、ひとまず大学進学を志すのですが、国立にいくおつむは持ち合わせてなかったので私立で選ぶ。そうなるといかんせん金が。私立大学は入学金+前期授業料ってことでそこそこまとまった金がいる。
しかも高校とは比べ物にならない相場観。という訳で、この年はとりあえず資金確保のために1年間のフリーターでファイナルアンサー。色濃いフリーター生活本番のスタートです。結論から言えば、この期間にほとんど勉強なんかしておらず、どちらかと言えば社会勉強の期間だったと捉えてます。
フリーターと言えど、まだまだ若輩。バイト先には年上の猛者がうじゃうじゃ。普段から年上と接する機会がほとんどないChagamiはそういう付き合いのセオリーとか、礼儀とか、ゼロでした。
結果、当時の年上のバイト仲間からは未だに「Chagamiはクソガキのイメージしか無いぞ」なんて冗談交じりに言われる始末です。
そんな方々からも、大人になり、認められ、今は本当に冗談になってきてるので良しとしましょう。
あて、ここでもエピソードを1つ。ここでは輪をかけて仲間の大切さを思い知ることになります。バイトコミュニティの特性として、かなりの頻度で歓迎会とか送別会を行います。とりわけ酒好きの集まった職場だったので、尚更です。
そんなとある送別会の一コマです。
まわりは自分が思っている以上に見ているぞということです。見ているということは善悪含め、興味の対象にはなっているということ。相手を知ろうと、少なからず考えてくれていること。
こうした人たちに感謝と敬意を払い、真摯に接していかねばすぐ孤立する。
残念ながら実際に孤立してしまった人を何人か見ているし、孤立は嫌なもんです。人と付き合う、コミュニティに属する、そこで本当の意味で仲間として受け入れられるにはやはり、独りよがりではやっていけないぞと認識を改めたのでした。
やはりこのあたりは学校では教えてくれないこと。フリーター、バンザイ。
6.薄っぺらいキャンパスライフとたった1つの大きな収穫
そんなこんなで激動のフリーターを経て、大学に進学。結局学費は3年目からは奨学金(返すやつ)をお借りすることになったのですが、それはそれとして、私が選んだのは杏林大学。
医学系の大学ではありますが、全く医学はわかりません。
それもそのはず、やりたいことが特になく、霞がかった脳みそでおぼろげにあったのは「いずれ起業したろ」というもの。動機はいずれお話するとして、とりあえず経営関連の学部を目指す。英語が壊滅的だったChagamiは数学と国語という2科目入試でまずは事なきを得ました。
晴れて進んだ道は”総合政策学部総合政策学科経営コース”という、実になんでもありな感じの学部です。そのため多種多少な授業が用意されており、目標のない若者にはうってつけではありました。
キャンパスは八王子の山奥。八王子駅からバスで30分。混んでると60分。ハチもヘビもイノシシもミンナトモダチ。イノシシと衝突して原付きが吹っ飛ぶなんてこともありましたが、これはまた別でご紹介します。
基本的には大学生活というのは死ぬほど勉強やサークル、部活に打ち込むわけでなければ穏やかなもんです。相変わらずバイトに明け暮れていたので、最低限の授業と軽音楽部、それとフラッとフットサルサークルに顔出すくらい。
時は進んで大学生活後半戦。ゼミが始まった。大学時代の友達なんてのはホントに2,3人くらいしかいなくて、大学生活は基本的に彼らの行動に任せていた。その中のひとりユウスケ。僕と同じ名前。社交的で付き合いも広く、なんでもやってみる行動派。見事大手製薬会社に就職したんだから大したもんだ。
ゼミについてもご多分に漏れず、彼の誘いで決まったわけで。このゼミでもうひとり、友達ができるわけで、今も連絡はたまにとる。が、長くなるのでまた今度。
とにかくこの時期に一番影響を受けたのはそう、ゼミ。担当教授は元ソニー人事部長の武田耕一先生。エニアグラムという診断ツールを駆使して人の本質に迫る。人事、チーム、コーチングに深い知見をお持ちで、著書も有るほどです。
武田先生は今思えば非常に実践的な活動内容をゼミで展開してくれており、プレゼンだったりリサーチだったり、人の本質だったり、チームの大切さや機能など、社会に出てから有効なことだらけ。
課題に対して根掘り葉掘り、とことんまで詰められるという経験も、社会に出る前に体感できます。笑
さて、それはそれとしてこの武田先生。自己分析の大切さと、その方法をしっかりと導いてくれました。詳細は“エニアグラムが教えてくれた本質”で紹介してますが、とにかく大きな収穫になったのは間違いない。
もっと言えば。今の仕事にたどり着いて皆さんと関わり合ってる可能性はとても低いはずです。未だに地元で肉切ってたかも知れません。それくらい、武田先生との関わりは意味深く、有意義でした。ユウスケ様様です。
さて、そのエニアグラムが導いたChagamiの本質は「タイプ2:助ける人」
このタイプの動機づけとして「ありがとう」とか「君のおかげ」という言葉で最もモチベーションが上がるとのことです。
なるべくして今があるような気がして、正直コレ書きながら驚いてます。他にも重症なキーワードとして自己犠牲なんてワードも出てきますが、とにかくここで一通り今のスタンス「人助け」がしっかり確立されたわけです。
7.転機その2-70%の男・社会人
大学の単位がギリギリだったことも有り、4年の後期までフルで単位取得に迫られた末、なんとか卒業。したがって、ろくに就職活動もできておらず、選択肢は狭かった覚えがあります。就職氷河期なんて言われてましたがまわりはポンポン就職が決まり、ヤベヤベってなってたChagami。
たまたま、ってのもおかしいですが、とある渋谷のモバイル系ベンチャー企業が新卒を積極採用してまして、わりとギリギリまで募集してくれていました。
説明会に赴くと「サポート営業、推進」みたいな感じだったのでこりゃ良いなと思いエントリー。武田先生、僕にぴったりな会社見つけたよ!なんて思いながら入社。
入社後の経緯は
で紹介してます。地獄の研修から配属までの物語をお楽しみください。
そんなこんなでバタバタ日々を送る私。特に印象的なお話を1つ。
“フルアクセルで仕事ができるように”なったお話。
自分は100%やってるつもりでも、なんの気無しにリミッターを稼働させてることは多いものです。当時のChagamiもそうでした。表向きは上手くやってる”風”。だがしかし。ベンチャーの猛者は見逃さない。
上役のRYOさんという人がいた。気さくでイケメンですぐキレるにーちゃん。ハートが熱く部下想い。だからこそ、ちゃんと言ってくれました。
「お前はやればできるのにいつも70%」
「地頭良い分、リスクおそれて臆病になってないか」
おやおや。そんな事はござらんよ。最初はそう思った。でも話の続きでその意味がようやくわかった。一語一句は覚えてないけっど、
「あそこの代理店のどんな感じ?」
「こうです」
「原因はつかめてる?」
「これです」
「そうじゃなくて、本質は?」
「スタッフさんとかとも話してる感じ、こうです」
「だよね。俺もそう思う。で、それならどうする?」
「こうすれば良いかもです」
「ね。わかってんのにやらないじゃん。何で会議で出さないの。そこが70%なんだよ」
これにはハッとしました。見えてるはずの根本を華麗にスルーしてたとは。これで何が推進か。代理店を儲けさせることが仕事なのに、本質に向き合わず根本を解決せずに助けられるわけもない。自己満足も甚だしい。
近しい人は充分に対話してきた。ビジネスも同じなんだって、気付いた瞬間。さらに一言。
「本気で向き合わないと相手だって本気で話なんかしないよ。本来なら最初から本質を話してもらえて然るべき」
仰る通り。ここから僕は、お客さんとの接する時間を増やし、すこしでも距離を縮める努力に時間を割いた。代理店さんのスタッフレベルまで仲良くなるよう努めた。
コミュニケーションの仕方とか、話し方とか、身近なすごい人達を参考にするようになった。
仕事だって結局は人と人。そこに気付けてなかったのが、自分に足りない30%だったのかも知れない。
その後”お伺いをたてるスタンス”は一切廃止した。御用聞きは意味がない。社内でもそうだ。いちいち顔色伺って進めても話にならない。当時の事業部役員はこう言ってくれた。
「正しきことに許可はいらない。どんどんやれ。お前は大丈夫。これからもよろしく頼む。」
自ら考え発信することの大切さを覚えたのもこの頃。
これらの経験が、今の「お節介な業務代行で密接に関わる」のルーツかも知れない。
8.ようやく気付いた自分の居場所
2番手
参謀
右腕
サポーター
そんなこんなで社会人経験も3年がすぎ。自分が取り得るポジションで、一番居心地の良いのはこういうところに落ち着いていった。
ここで一旦退社し、当時の同期と共同出資の形で起業することになる。2番手サポート気質はブレること無く、このときも迷わず2番手、社長の役職には興味がなかった。担ぐ人間がいて、初めて真価を発揮する事がわかっていたからだ。
もっとも最初の3年はあまり芳しくなく、今の方向性に転換することになるのですが、このあたりの経緯はまた長いのでまた今度。
それでも得たものはある。失敗もした。人も雇った。大赤字も経験した。小さな企業だからこそ、全ての分野のバックオフィス業務を経験した。
そして2018年、今の会社を設立し再スタート。バックオフィスの自分にも何か売上の足しにできることがないかと、業務代行事業をスタート。
これが正解だった。売上どうこうではなく、歩む道として、正解だった。気質に合っている。厳密に言えば業務代行、つまりお客様にとっての外注は2番手を探す場ではないのだけれども、付き合い方によってはそれに近しい価値を提供できる格好の戦場。
業務代行の商売の良いところは、より成果を実感できること。
お客さんという会社の船に乗り込み、新規受注があれば一緒に喜び、新規事業とあらば一緒になって考え、同じ方角にかじを切り、ときにはお節介なまでの意見を投げかけながら、達成に向けて共に漕ぎ出していく。
そして成果を残し続けた分だけお付き合いが続き、認められ、結果自分が一番能力を発揮できる環境=2番手(3番手、4番手かもしれないけど)で仕事ができる。
業務代行は皆が幸せになる現場を身をもって体感できる、素晴らしい職業だなと今となっては思って止まない。
いい年こいたおっさんが、自分がベストパフォーマンスを発揮できる環境にようやく気づいたわけです。
これまでの人生でも広く浅くが出来ない性分だった。今今の時点でも友達と呼べる人は両手両足の指の数より少ない。結局、そこの根底は何も変わってないみたい。別に、変える必要なんて、もちろん無いと思ってる。
狭く、深く、そこに心血注ぐことが”得意”に転換されて、今の職業を天職と思えるんだろうなって、そういう事かもしれない。
だから。
誰かの力になりながら、付き合いが深けりゃ一緒に喜んで、そんなスタイルのChagamiで良ければ、今後とも宜しくお願いいたします。